TOP>Back Number6(2017.11-)



2018年10月30日(火)
歴史散歩…丸の内−和田倉門−八重洲−日本橋−人形町−蛎殻町…
東京駅丸の内南口(集合)−デ・リーフデ号彫刻(丸ビル)−馬場先濠と八重洲河岸跡−日比谷の入り江と一ノ倉跡(和田倉門)−辰ノ口跡・道三濠跡−呉服橋跡−北町奉行所跡(東京駅日本橋口)−外堀跡(八重洲地下街)−中橋広小路跡−於満稲荷神社−江戸秤座跡−名水白木屋の井戸−日本橋・日本国道路原標−日本橋魚河岸跡−三浦按針屋敷跡−葺屋町芝居町跡−玄冶店跡−蛎殻銀座−水天宮−有馬小学校−真砂座跡−東京エアシティターミナル−水天宮前駅(解散)
詳細はこちら


2018年5月12日(土)
歴史散歩…鐘ヶ淵−橋場−向島…
5月としては、気温は高め、しかし、風があるので心地よい歴史散歩となった。鐘ヶ淵駅を出発、「古東海道」を西へ、旧隅田村に入ったところで「下の道」と交差する。さらに進み、墨堤通りを横断すると木母寺旧地に至る。木母寺は、東京都の防災拠点(都営白鬚東団地)造成のため、隅田川沿いに移転を余儀なくされ、由緒ある古隅田川河口は埋め立てられ破壊されてしまった。梅若伝説(謡曲・隅田川物)ゆかりの地、旧河口・水神の森の景観は、共に失われてしまった。「旧墨堤の道」は、度重なる整備によって、大きく変わってしまったが、「白鬚神社」から「子育て地蔵」までの湾曲した古道にその面影を残す。また、地蔵坂通りは「ツル土手」と呼ばれ、江戸期以前の海岸線であったというが、その面影は全く見られない。白鬚橋を渡ると、台東区・荒川区側には「橋場の渡し」「真崎の渡し」「隅田川の渡し」等と呼ばれる渡しがあったのだが、正確な場所は判然としない。この辺りは、謡曲・隅田川物と共に伊勢物語の舞台となった地域であった。桜橋を渡って、再び「旧墨堤の道」に戻る、ここも度重なる整備によって、大きく変貌している。明治初期、土手から牛嶋神社へ下る坂の入り口に建立された常夜灯が残されているが、牛嶋神社自体は言問通りの南側に移転していった。土手下の「言問団子」、「長命寺桜もち」を横目に見ながら移転先の牛嶋神社に向かう。移転先の牛嶋神社境内にあるJA東京グループの案内板によると、この地域には、大宝律令により国営の牧場が設置されたとあった。東京スカイツリー駅はもう目前であった。(写真は白鬚神社脇の『旧墨堤の道の名残部分』、2017年晩秋撮影)
詳細はこちらです

2018年4月3日(火)
歴史散歩…中里−西ヶ原−染井−巣鴨…
JR尾久駅から、尾久車両センターの長い地下道を通って、中里貝塚へ向かう。中里貝塚は、縄文中期の「干し貝」の製造工場の跡、発掘調査の様子を現地解説板で見ることができる。JR上中里駅、飛鳥の小径を経て、一本杉神明宮へ向かう。現在は、移転してきた七社神社に圧倒されているが、江戸期には、日光御成道から見える一本杉が名物だった。日光御成道(現・本郷通り)に出ると西ヶ原一里塚が当時の規模で見ることができる。本郷通りを南下して無量寺へ向かう。江戸期には、六阿弥陀 三番目として大いに栄えた、現在でも、境内は静寂と風格を感じさせる。無量寺から西方向へ下ると、染井銀座商店街・霜降銀座商店街に至るが、ここは、谷戸川(藍染川)河道跡として知られる。さらに進むと、旧染井村・植木屋さんの里に至る。ソメイヨシノの発祥の地としても有名。染井霊園・その周辺の寺院群は明治維新以後開設され、著名人の墓を訪ねることができる。染井霊園・寺院群の地は、谷戸川(藍染川)の源流として知られる。石神井川が王子駅のところで、隅田川方面に抜けたあと、谷戸川(藍染川)は、この辺りの湧き水を源流としていたらしい。最も大きな水源は、染井霊園の長池跡に見ることができる。長池跡と中央卸売市場の間を抜けると、国道17号(白山通り)。国道を横断すると、巣鴨地蔵通りに出る。(写真は西ヶ原一里塚)
詳しくはこちらへ

2017年11月27日(月)
歴史散歩…高田馬場跡−面影橋−雑司ヶ谷−目白台−関口…
高田馬場跡(高田馬場駅の名称由来)西端を横切るように古鎌倉街道が雑司ヶ谷に向かって伸びている。街道を、面影橋→山吹の里碑→南蔵院→金乗院と進む。金乗院近辺は宿坂の関といわれる街道の要所だが、近年では、関口駒井町からやってきた「目白不動(目白駅の名称由来)」を合併していることで知られる。宿坂を上ると、鬼子母神の参道入り口となる。鬼子母神大門、ケヤキ通には、江戸期時代、高級料理屋が並んでいたが、今は静かな通りである。鬼子母神堂は法明寺の一堂として、江戸期のままのたたずまい、その境内では樹齢600年ともいわれる大イチョウが一段と存在感を増していた。弦巻通りを挟んで、810年創建の古寺・法明寺がある。境内にある「蕣(あさがお)塚」は、江戸時代、有数の文化人の集まりをうかがい知ることができる。今は暗渠となっている弦巻川河道跡を進むと、鬼子母神像出現の地(清土鬼子母神)に至る。日本女子大裏側から目白通りに出ると、田中邸が目の前に現れる。目白通り南斜面には大名屋敷跡が並ぶが、その中でも、細川家下屋敷跡・抱屋敷跡は、和敬塾・永青文庫・肥後細川庭園として利用されている。細川庭園を出ると、そこは、神田川沿いの旧関口村、関口芭蕉庵・神田上水取水口大洗堰跡等がある。大洗堰跡あたりから遊歩道を上って崖上に出ると、蓮華寺跡・目白不動跡が並ぶ旧目白通り(目白坂)に出る。この道は、清瀬市清戸へ通じる清戸道、江戸期には神社仏閣で賑わったようだが、現在は、目白通りの脇道に格下げられ歴史から消えつつあるようだ。(図は雑司ヶ谷・法明寺境内の蕣(あさがお)塚)
詳しくはこちらへ


Back Number5(2014.2-)
Back Number4(2013.1-) Back Number3(2012.1-) Back Number2(2011.1-) Back Number1(2010.9-)


       

トップ>Back Number6 (C)2019  KUWAJIMA Toshihisa